昭和41年08月22日 朝の御理解
計算ずくの信心。或程度の計算ずくという信心が、本当の計算ずくの信心になって参りますと私はおかげ頂くと思う。計算ずくの信心では算盤を持っての信心ではいけないという人がいます。こうすりゃああなる、ああすりゃこうなると言った様なその条件やらがあってはならんのですけれども、よくよく考えてみると計算ずくの信心がなからなければ楽しみの無い様に思いますね。だから折角の計算ずくの信心をするなら本当に間違いのない計算のしてある信心でなからなければならんと私は思うですね。
氏子が神様本意なら神様が氏子本意になって下さると、いつでしたかそんな御理解を頂いたことがある。これなんかは間違いない計算の信心ですね。例えて、商売人がです、お客様本意にすれば必ずお店は繁盛するという計算、それと同じなんです。お客様本意になれば絶対店の信用は付く、必ず繁盛すると計算に入れてある。だから計算するなら間違いの無い計算をしてからの信心でなからないかん。
そこに例えば、お客様本意のお商売させて貰えばお客様も喜んで下さることの出来るのであり、お店自体も喜べる訳でしょうが。絶対商売させて貰うなら、口だけではお客様本意と言いながらです、そして結局自分の方の儲る方にと自分の方本意というのでは、これはあそこはお客様本意だというのに一つもお客様本意じゃないじゃないかということになって参りますから。
やはりお客様本意というのが、本当にあそこはお客様中心にした考えでお商売しておるということになりますとです、必ず信用も付けば、同じ買うならそこでしか買わんということになって参りましょう。ですからお店の繁盛としてはもう絶対のものなんです。これはお客様本意と言いながらもし繁盛しないならばです、絶対それはお客様本意の店ではないのです。信用も同じ事です。自分本意自分本意の信心では、それは成程ただお店本位のお商売でも商売が無いと言う訳でもない、儲らんと言う訳でもない。
けれど絶対ということではないと、信心でもそうなんです。それは初めは誰だって自分本意ですから、只自分がおかげ頂きさえすればいいのですから。それでもおかげ頂くようなもの、それでも絶対とはいえないのです。ところが、これがです、段々信心が分からせて頂いて自分本意の信心から神様本意の、神様中心にならせて頂くところの信心になって参りますとです、これはもうおかげは絶対のもの。
やはり氏子が神様本意なら神様も又氏子本位になって下さるという。おかげが成程成程という合点の行くおかげになって来ると思うのです。そこにお互いの信心をですたい、神様本意のようであるけれど、実際は自分本意の信心であると気がつかないかんのです。それを証拠におかげが絶対のものになっていない。これをお願いして、御無理を申し上げてお取次頂いておるというだけでは詰らんですね。絶対のものが無いのです。
昨日善導寺のお月次祭のおかげ頂いたんですけれども、親先生が昨日お留守でございましたから、北野の先生が代わりにお祭りの奉仕に見えて居られました。その御説教、私耳が遠いもんですから聞こえないんです。帰ってから豊美にどんなお話だったかのというてから、その要点だけは聞かせて貰ったんです。あちらに昔熱心な総代さんがおられて、ところがそこの息子さんのお嫁さんを貰われることになった。ほいで勿論神様にお願いをしお取次を頂いてもう九分九厘まで出来た。
もうあと一押しで貰い受けることが出来るということになった時、何処からかえらが入ってその縁談が崩れて仕舞った。それから信心を止めなさった。もう先生にあれだけお願いしたばってん、先生がお願いして呉れんじゃったやろというて、蔭口を言われるようになった。それっきり信心が疎遠になっておったと、こういう事なんです。ところが自分の方から貰い受けようとしたその娘さんが自分の村内にお嫁に見えた。
自分方に貰おうと思ったお嫁さんがです、自分方というだけでも自分の村内に嫁入ってきなさる様になり、しかも田が自分の所の隣同士の所に戻って来てあんなさる。中々良いお嫁さんだと思いよった、いうならばうちに欲しかった、嫁さんを家に貰う筈だったという気持ちがあったでしょうね。所が何年か経ってその嫁さんがノイローゼのようになられてですね、いわゆる精神病院に行かなければならんと言う様な事になった。
そして初めて、あぁおかげで良かった、あの時貰われんで良かったと気が付いたとこういうのです。それから五年か十年してからでございましょうか、今は又北野に復帰して信心なさって居られる様な話だったらしい。自分に都合の良いようにならんと、もう先生にお願い不足のように思ったり神様に力が無いように思うたり、信心したって同じ事と思うたり、そして信心まで止めて仕舞う。
それを五年か十年かの後にです、そういう事実が分かったところが、本当にあの時貰わんで良かったとこういう事になって、それがおかげであったということになる。これなんか間違いなく自分本意の信心だからですよね。自分の都合が良くなった時だけおかげが、自分の思うようにならなかったらもう神様に力が無いような思い、これは神様本位の信心では有りません。自分本意の信心。ですからおかげが頂けないだけではなくて、信心までおろそかにして仕舞わなければならぬ。
一生涯の事を通して思うてみるとです、大変な一生の分のマイナスの何年間を続けなければならんということになるでしょう。その時にどうでしょうか、九分九厘まで出来ておった。それが出来損なったのだから、ああこれは神様の御都合に違いないと、神様の御心をこちらが押し計って神様の御心をこちらが分からせて頂いての信心になったらです、どういう事になるでしょう。
こら神様のいわば御都合に違いはないと、又はこれは自分達がまだ信心が足りなかったということになる。一段と信心が進められていくところからです、私は本当のおかげが展開して来ると思う。神様本意の信心とはそういう信心だと思う。これはもう絶対のもの、算盤を持ってはいけんとか、信心に計算ずくではいけんでもです、もう折角算盤づくであり計算づくである。いやおかげということを主にするならです、そのおかげが絶対のおかげになるような信心をせないかんと思う。
それは自分中心の信心から神様中心に置き換えなければいけん。自分本意の信心から神様本意の信心にならなければいけん。もうこれなら絶対、お商売させて貰うならお客様本意にならせて貰う。これは絶対の信用と繁盛は間違い無い。口にはお客様本意といいながら、こら自分の儲るためのお商売であったら、もしそれが繁盛して居るようであっても絶対とは言えない。絶対のおかげの頂ける信心と言うことになるとです。自分というもの中心ではない、ここんところがなかなか難しいですね。
そんならその自分本意の信心とか、神様本意の信心とかと言った様な事を北野の先生のお話の中から、私色々思って申しましたけれど、自分の思うようにならなかったらもうおかげではないと思い、それが何年か後に、かえってああ良かったあの人を貰わんで良かったと言う事実が分かったら初めて神様の御都合だったと分かると言った様な信心ではそれは神様本意の信心ではないからだということを、神様本位の信心ではないからそういう結果になるんだということを申しましたけれども。
これをもうちょっと根本的な具体的な言い方をするならです、神様本意の信心とはどういう信心かと、それはですね、結局お任せする信心だと私は思うですね。神様にお任せしての事であるからと言う事になるのです。もう良いにつけ悪しきにつけ神様に任せしてあるんだ、お任せするんだという信心が私は神様本意の信心だと思う。神様にお任せしとったばってん、こげな痛い思いをせなならん。神様にお任せしとったばってん、こげな損をした。これは神様に任せたようで任せていない。
損しようが痛い思いをしようが、任せてあっての事であるから、これは神様の御都合に違いないという風に頂けた時に初めて自分は神様本意の信心をしておるんだ、神様任せの信心をしておるんだということになるのです。これならばおかげは絶対のものだということです。氏子が神様任せなら神様が氏子任せになると仰せられますからと三代金光様が仰ってる訳ですから、お互いの信心がです、只自分を中心、自分一家が中心の信心から、神様が中心の信心、まあいうならばお広前が中心、お広前中心の信心。
そこから私は絶対のおかげが頂かれるんだと。絶対のおかげなのですから、そこのところ分からなければいけんですよ。そしていうなら、絶対の信心を稽古させて頂きよってもです、分からないところが沢山出て参りますよ。これはね、稽古しなければ私も具体的に教えて上げることが出来んごとあるんです。探りで教えたって分からんことがあるんです。例えば今日の御理解なんかは、いうなら噛んで含める様な感じですけれども、実をいうたら実際に稽古してみなければ分からないのです。
実際に神様任せになってみなければ、本当に自分の心の中に本気に神様本意にならせて貰うぞと、例えば腹を決めましても、実際神様本意にならせて頂こうという段になってからですたい、やっっていきよってです、あら、これは神様本意であろうか、こういう場合どういう風にすることが神様本意であろうかという風にです、その事その事に依って違うのですから、やっぱりお伺いをしなければ分からんのです。実をいうたら、そこんところ私もお話出来んのです。
椛目の信心はどちらかというと、もう子供のごと噛んで含んで言うごと、まぁよう言えば下さるようであるけれどもです、それを自分のものにして自分が行じてみなければ分からないということ。これは私の小学校の時、数学の先生が何時も言っておったこと。指してみると誰もしきらん。しきらんのならどうして質問せんかと言うて、先生がかんしゃくまわしよんなさいましたが、分からんとこないかと言われても手も上げん、もうしまいには戸板拭きを持ってから投げつけよんなさった。
もうそげんあろうと思いますですね、私は。それは数学の先生だけではない、私とてもそういう思いをすることがありますよ。おかげ頂けん、おかげが頂けんというて、こがしこ噛んで含めるように言いよるのが、それがおかげ受けん筈が無いと私は思うのです。そこが分かって居るかのようにして、分かってないじゃないですか。それなら何故お伺いでもしてから信心を進めんか。ほんなこと、御結界から投げつけろうごとある。ほんなこってすよ。おかげ頂いて貰いたい。
又皆さんもおかげ受けたい。ところがです、分からんなら、その分からんとこすらが分からん。稽古しなければ実際その問題を取り組んでです、計算なら足したり引いたりしてです、どうしても答が出らん。そしてここのところこんなになったですけれど、ここんところどうでしょうかという質問が出来ん。実を言うたら、勉強しなかったら、それをこうじゃないか、もうちょっとヒント与えれば出来るところなんです。だから先生としたらです、教えてやりたいけれど何処を教えていいか分からんと先生も、
今日の御理解なんかは絶対のおかげだと、算盤持った信心ではいかん、計算づくの信心ではいかんと言われるけれども、今日の御理解頂くと、絶対のものであるならば計算ずくのおかげがいきよるということ。お商売させて頂くならこれは絶対のものなんだ。お客様本意になると絶対お店は繁盛するというものなんです。神様本意なら絶対のおかげ、氏子任せというか、氏子本意に神様が動いて下さるほどの間違いないことなんですけれども、ああそうかと、分かっただけではおかげにならんということ。
やはり実意の一切の事柄の中からです、一生懸命稽古する気にならなければ。そしてそれを本気で稽古されたら、こういう風なことはどうでしょうか。これは私の場合は神様本意になって居るようであるけれども、神様本意になっておるでしょうかと言う様にです、お伺いをし、質問させて頂きながら本当のものにして行かなければならんのです。どうぞ一つ先生に黒板拭きを投げつけられるような信心をいつまでもせんでです。
本気で踏ん切りつけてです、せめてお広前中心の信心ぐらいのにならせて貰うて、お広前中心なればこう云うようなおかげ、それが段々神様本意と云うことになってまいりますと、神様の心一つ分からずして、神様本意になれる筈ないじゃないですか。如何にお客様本意と言ったってお客様が何を求めてござるか、お客様は何を考えてござるかそこんところを研究せずしてお客様本意になったもんじゃないですよね。
どうぞ。